先週日本矯正歯科学会が大阪でありました.私も参加しにいってきました.とはいえ今回は発表などせずただの物見遊山でした.ついでに京都の鈴虫寺 「妙徳山華厳寺(みょうとくざんけごんじ)」 にお礼参りにいってきました.数年前にお願いをしてかなえていただきましたのでお札を納めてまいりました.午前中に伺いましたので空いておりましたが,ゴールデンウィークなどは3時間待ちだそうです.お説教をしてくださったお坊さんは台風の日のお参りを勧めていました.
学会は発表をする人のためにありますから,新潟大学在職中はつまらない事でもいいので毎年何か発表するように心掛けていました.参加する側の心得としては間違っていないと思うのですが最近はちょっとそれではいけないのでは?と考えるようになりました.歯科矯正学会は歯科矯正学が進歩するためにあるんだと思います.歯科矯正学とはなんぞやと考えると,歯科矯正という治療を受ける患者さんが安全に治療が受けられるためにあると思います.元が人間を扱う医療の1分野ですので,中心に患者さんの利益があることは疑いのないことです.これを忘れてはいけません.
学会では色んな人が色んな発表をします.今回の日本矯正歯科学会でも300を越える発表がありました.だいたい学会の発表は「私の方法はこんなに優れていますよ」というものがほとんどです.なぜかというと学問の世界では「私の方法はだめでした」という発表は価値がないものとされているからです(私はこの考え方は間違っていると思う.効かなかった.治らなかったという報告があったほうが全体として治療のレベルがあがりやすい).「私の方法はこんなに優れています」という報告が本当に優れているものであれば,自然に追試がされ世の中に広まっていくはずです.優れていないものは消えていきます.でも,世の中全般に広がるでもなく,消えて行くでもなく中途半端なものもあります.なぜこのような事が起こるかというと評価が行われないからです.学会で発表して私の方法はこんなに優れていると声だかに言うことは自由です.がその根拠やデータが間違っていてもそれが間違いであると評価される舞台はありません.間違った根拠や誤ったデータに従い,製品が売られている場合もあります.これはなんかおかしくありませんか?各自が勝手に自分の好きな発表をしてもかまいませんが,それが科学の方法に準じている事を確かめることが学会の責任ではないでしょうか.また発表されたことに対する評価を行うことも学会の責任の下に行わなければ,治療は進歩していきません.
さて,各人のエネルギーは有限です.そのエネルギーをてんでんばらばらに使っても無駄が多いだけです.学会はエネルギーとお金を集約し治療に対する評価を行っていく義務があります.患者さんのために.