今、本を読んでいたらこんなフレーズがでてきた。
「学び」を通じて「学ぶもの」を成熟させるのは、師に教わった知的「コンテンツ」ではありません。「私には師がいる」という事実そのものなのです。私の外部に、私をはるかに超越した知的境位が存在すると信じたことによって、人は自分の知的限界を超える。「学び」とはこのブレークスルーのことです。
ブレークスルーというのは自分で設定した限界を超えるということです。「自分で設定した限界」を超えるのです。「限界」というのは多くの人が信じているように、自分の外側にあって、自分の自由や潜在的才能の発現を拒んでいるもののことではありません。そうではなくて、「限界」を作っているのは私たち自身なのです。「こんなことが私にできるはずがない」という自己評価が、私たち自身の限界をかたちづくります。(街場の教育論 内田樹)
わたしには歯科矯正臨床の師がいる。直接の師は深町博臣先生だ。彼は彼の知識と技術を惜しみなく与えてくれた。そして、彼の知識と技術をはるかに凌駕する与五沢という人間がいることを教えてくれた。私は彼と同じように与五沢先生を師とすることに決めた。(勝手にね。自分で決めた。)そして、与五沢先生の知識と技術をすべて吸収することを望んだ。未だ、すべてなど知る術もないが、患者さんを治すのに困らないだけの知識と技術は身についた。
当時、与五沢矯正研究会に属していたある先生が言った言葉が忘れられない。
「僕は与五沢先生になれない」
確かに、与五沢先生は従来の歯科矯正の枠を超えた思考により、より臨床に即した方法を提唱した。それは検査値を重視せず個々の患者さんの頭蓋顔面の形をそのまま認識し特徴を捉え、成長を予測する。という人間の能力をフルに使う方法であった。また、ワイヤーを自在に曲げ、アンカーを操った。
「僕は与五沢先生にはなれない」
どういう意味だったのだろうか。
彼は学ぶこと、自分の限界を超えることすなわち「治療の質を向上させること」を放棄してしまったのだろうか。
彼は、師をかえた。数年後また師をかえた。数年後また師をかえた。彼は彼自身が師なのかもしれない。