兜の前立てに「愛」愛だぜ!
重くてしょうがないだろうに。
NHKの大河ドラマ天地人が始まった。一度も見たことはないが・・・
このドラマがきっかけで「直江兼続」という人物を知った。
上杉景勝の父、長尾正影が越後国上田荘(南魚沼市)坂戸城主であったことは知っていた。
なんといっても私、新潟県立六日町高校卒業ですから。
正影の子が景勝、後の上杉景勝、謙信の甥っ子ですな。ここまでは知っていた。その家来の兼続のことは全く知らなかった。ずっとNo 2で景勝を支えたらしい。景勝の寝首を掻こうなんて思わなかったのかしら?景勝と兼続は塩沢の雲洞庵で一緒に学んだらしいから、兄弟か幼なじみみたいな感じだったんだろうか。
高校2年の夏は毎日午前は坂戸城趾までランニング、午後は六日町南スキー場までランニング。過酷な夏でした。坂戸山の中腹の湧き水はおいしかったな。まだあるのかな。
謙信の死後、景勝は景虎(北条氏康の七男、上杉の人質だった)との後継者争い(御館の乱)を制し、越後国を平定した。この時は高田の春日山城(上越市)にいたんですよね。
で、天正10年6月2日に本能寺の変が起きます。この時まさに上杉家の越中支配の拠点である魚津城が落城の危機でした。あと1週間信長が生きていたら、上杉家は滅亡していたと新潟大学の矢田教授が言っている。でその後は、豊臣秀吉に仕え、会津120万石に転封された。秀吉の駒として伊達の押さえとなったようです。この時、兼続は米沢城主となった。
慶長5年徳川家康は会津討伐(対上杉)のために大阪を出発、会津を目指す、現在の栃木県小山市まで来たときに石田三成が挙兵、関ヶ原に向けて帰って行ったため対決はなかった。
この頃、上田荘でちょっとした、戦があった。上杉は関ヶ原の混乱に乗じて、あわよくば旧領の越後を掘氏(徳川方)から奪おうと、旧臣達を先導し一揆を企てた。その戦いで上杉方が落とした城が下倉山城(現魚沼市私が育ったところです。)でも次の日には奪い返されたそうな。
そうこうしているうちに、石田三成の西軍は負け。上杉は家康との和解の道を探り出す。本庄繁長が本田正信をたより家康への謝罪の取りなしを依頼した。謝罪が功を奏し、領地は4分の1になったものの改易は免れた。で、兼続の領地の米沢に転封された。で時代を経て上杉鷹山が藩校を再興し興譲館とした。
稲見先生(戦国通)、渡部先生(米沢在住、山形県立米沢興譲館高校卒業)間違ってないですか?
参考文献 Train Vert 2009 January