人はなぜ歯並びを治したいと思うのか?という問いに対する答えをいままで聞いたことがなかった。どう治すか?ばかりでなぜ治す?という問いを建てたことがなかった。思っても深く考えなかった。よって、答えはわかりません。ということになる。
内田樹が本の中で人はなぜピアスをつけるのか?の答えを考えていた。とりあえず引用する。
「結局、こうやって人工的な都市環境になってくると、結局残っている自然て自分の身体だけなんですよ。だからピアッシングとかタトゥーとか、いろいろ自分の身体を加工する人たちがいますけれど、ああいうふうに身体に穴を開けたり傷つけたりするのって、養老孟司先生ふうにいえば"文明化"ですよね。自分の身体という自然に向かって、"これは私が所有するものである。だから私がどんなふうに扱おうと、私に全権がある"と宣言していることでしょう。身体に文明を刻印したってことですよね。最後に残った自然が自分の身体なんだから、それに文明を刻印するというのは、自然を排除しているということですよね。」(橋本治と内田樹、筑摩書房)
そうか、そうだったのか!最後の残った自然に対して文明を刻印している行為が矯正治療であったのか!ちょっとまて、ピアスとかタトゥーとかは確かに自然界には存在しない。しかし、きれいな歯並びやきちんとした歯並びは自然界に存在して、それに対して、我々は「きれい」だとか「ここちよい」なのどプラスの感情をもつ、反対にすごいでこぼこの歯やすごい出っ歯などはやはり「醜い」などのマイナスの感情を持つ。だから、歯並びの悪い人がきれいな歯並びになりたいと思うのが自然に対する文明の刻印だとは思わない。反面、無人島に自分一人しかいない状況であれば歯並びなんか治そうなんて思わないから、他人との関わり、社会との関わりの中で、他人にどのように見られているかという気持ち抜きには、矯正治療を行おうとは思わないはずである。よって矯正治療はある程度、社会的なものであると推論できる。
一方、ある種の鳥の世界では、尾羽が長くかつ、左右の長さがそろっている雄の方が交尾の際のパートナーを見つけやすいのだそうだ。(竹内久美子、シンメトリーな男 新潮社)竹内久美子は尾羽の形質が寄生虫なんかに犯されていないという雄の形質を端的に表しているからメスが選ぶのであろうと推論している。もし我々が持つ歯並びに対するプラスの感情とマイナスの感情が鳥のパートナーの選択と同じレベルで遺伝子などに組み込まれているとすれば、歯並びは治そうと思って当たり前だということになる。まーここでも、生殖のパートナーを見つけるためという、社会的な要素が入っている。基本的に社会的であることは文明的であることと同義ではない。社会的であることは人間の本質であるとおもう。そうでないと生きていけないし、子孫も残せないし。ということで社会に暮らす人間が歯並びがきれいな方がいいじゃンと思うのは当然のことであるという結論でよろしいかな。皆さん。