のんびり行こうぜ

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学生時代古本屋で,野田知佑さんの「のんびり行こうぜ」を見つけて読んだ.ちょっと停滞していた時期だったので,手に入る本すべて読んだ.「日本の川を旅する」「魚眼漫遊大雑記」「川を下って都会の中へ」「ガリバーがゆく」「ゆらゆらユーコン」で,少し元気になった.その後も新刊が出ると手に取るようになった.最近ではビーパルで「のんびり行こうぜ.新・日本の川を旅する」が連載されていたので,毎月買い求めていた.ビーパルが待合室にある理由はこんな事です.さて,今月号は最終回.なんと魚野川のことがかいてあった.これまで,野田さんの本で魚野川のことを読んだ記憶はない.今回,1970年頃の魚野川を野田さんは「夢のように美しく,大切な川だった」と書いてる.「1985年東京からの高速道路が開通すると湯沢にリゾートマンションが林立し川はあっという間に汚れ,我々は魚野川から遠のいた.」「東京のバドラーの間では魚野川が禁句になった.みんなの気持ちを言えば,清純な乙女が汚れ果て,その事を口にすると胸が痛む,といった感じだろう.」合点がいった.どおりで魚野川の記述にお目にかからなかったわけである.1970年に私は5歳であった.小学生時分には父に連れられ魚野川で毛針釣りをした記憶がある.だが父はビーパルを読むようなアウトドア好きでは決してなかった.と思う.どちらかと言えば「ラヂオの製作」を購読する秋葉原好きであった.(おたくではあるが,今と違い,萌えはなし)父は東京歯科大を卒業した歯科医師であった.品川に住み水道橋に通った青春が彼にあったとは想像がつかないがその当時の同級生(だと思う)に,杉並の水上さんという人がいた.かれはアウトドア好きで夏は鮎釣り,冬はスキーをしに我が家にやって来た.未だに彼の当時の釣り道具が実家にはある.その水上さんがくると私も夕方,魚野川で毛針を振った.私用の竿を買ってもらってうれしかった記憶がある.ただ,その後は私は釣りはせず"やす"をもって魚野川の支流の佐梨川で遊んだ.小出町の魚野川は子どもだけで遊ぶには大きすぎた.淵も大きく流れも早かった.佐梨川は子どもだけで遊ぶにはちょうどよかった.6月頃にはまだ十分な水量がありその頃は砂防ダムにできた滝から飛び込んで遊んだ.最初に飛び込むのは勇気がいった記憶がある.淵には鮎,ハヨが数十匹の単位で群れていた.滝壺の裏にはヤマメがやまほどいた.淵の横のテトラポットの陰には大きな鯉が鎮座していた.やすで突いても鱗で跳ね返された.豆腐屋の排水溝の下に手を入れると,20−30センチのハヨが沢山とれた.時折,大人と魚野川にいった.魚野川の淵には鮎が山ほどいた.でも,鮎釣り師に邪魔にされるので魚野川は嫌いだった.小学校4,5,6年の夏はほぼ半日佐梨川にいた.

一昨年の夏,懐かしかったので,子どもと奥さんと佐梨川で水遊びをした.子どもの頃とおなじ,小出小学校前(当時は小出中学校だったけど)から佐梨橋まで,かじか"が3匹とれた.子どものころは魚屋にもっていくと小遣いになった.魚屋に買い取られた魚は焼き干しにされてかじか酒のもとになった.

今年の夏休みは津南にキャンプに行った.橋の下の信濃川は雪解け時期と見まごうばかりに滔々と流れていた.JRの発電所にとられていた分が流れていたのだという.その信濃川を野田さんが下り,ビーバルに書いた.野田さんが封印した新潟の川が蘇った.僕も夏に満々と水を湛えた信濃川を始めてみた.とりあえずこの夏,山手線は止まらなかった様だし,このまま信濃川に水が流れるといいと思う.そして長野県まで鮭が上れますように.

ちなみに写真は日曜日の八海山.

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このページは、星歯科矯正が2010年2月16日 17:41に書いたブログ記事です。

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